The letter to you
真っ白な便せんが月明かりに仄白く輝いている。 イーストエンドというロンドンで最も薄汚れた地区のボロボロの机の上にあるには不釣り合いな程の白さに、ジャック・ミラーズはすでに何度目かになるため息をついた。 (・・・・何してんだろうな、俺。) はあ、と零れたため息は広げられたまま一行も書かれていない便せんに落ちた。 そのため息の後を追うように視線を落としたジャックの目に映ったのは、白い便せんの横に置かれたこれまた白い封筒。 そして ―― もっと、この机に不釣り合いな淡いピンクがかった一通の手紙。 ジャックはそれを数秒見つめ、それから掬い上げるように手に取った。 今はジャックの手に乗っているその封筒が、もっと華奢で美しい手で差し出されたのは、もう数時間も前の話だ。 労働などしらない白い手の持ち主は、そのストロベリーブロンドの髪に縁取られた顔に無邪気な笑顔を乗せて言った。 『貴方の事をもっと知りたいわ。』 「・・・・変な奴。」 記憶を巻き戻したと同時に脳裏に浮かんだ少女の顔に、ジャックはぽつりと呟いていた。 幸い、屋根裏のような部屋とはいえ、一応一人で部屋をもらっているジャックの呟きを聞きとがめるものはなかった。 もっともそうでないなら、便せんなど広げる余裕などありはしないだろうが。 イーストエンドはロンドン最下層の街。 誰もが生きる事に必死で、文字を読んだり書いたり出来る人間などごく一握り。 まして誰かと話をするために手紙を書こうとするなんてこと自体が、イーストエンドの住人には思いつきもしないだろう。 (とてもそうは見えないけど、あいつもやっぱりお嬢様なんだな。) そう考えたところで、ふと『失礼ね!』と頬を膨らます彼女の顔は目に浮かんで、図らずも口元に笑みが浮かんだ。 すぐにふくれて、怒って、笑って、しゃべって。 女王陛下の探偵の称号付きで彼女が入って来てから、まだ数週間しかたっていないのに、やたらと記憶されている表情のバリエーションが多くなってしまった少女・・・・エミリー・ホワイトリー。 彼女こそが、今、まさにジャックを悩ませている手紙の差出人であった。 もう数時間は前になるが、放課後、偶然顔を合わせたエミリーは話をしているうちに、良い事を思いついたとばかりにこの手紙をあっという間に書き上げてジャックに渡してきた。 エミリー曰く『ジャックは直接お話しするより、お手紙の方が得意そうだから』だそうだ。 (・・・・得意も何も、手紙なんか書いたことねえよ。) はあ、ともはやカウントもめんどくさくなるほどにはき出したため息をさらに一つ。 確かにジャックはそれほど人と話すのは得意ではない。 しかしそれは、あのハリントン学園に通っている裏の目的があるというせいもある。 ジャックの役目は謂わば密偵なのだから、特定の生徒と親しくしたり、己の情報を不用意に明かすわけにはいかないのだ。 だから、いかにも好奇心旺盛で物怖じしないエミリーがやってきた時、なるべく距離を置いておこう、と冷たく接したというのに。 (・・・・全然効果なかったよな。) 思い出すと苦笑してしまう。 イーストエンド生まれが珍しいかと威嚇した最初は、さすがに驚いたようにしていたようなので、それっきり近づいてこなくなるかと思ったが、エミリーは全然変わらなかった。 ジャックが切り傷を作っていると気が付いて手当してきたり、その上にこの手紙だ。 (俺のことが知りたいってどんな物好きだ。) 変わり者ぞろいのハリントン学園でも異分子として遠巻きに見られることになれているジャックにとって、エミリーの申し出はまったく理解不能だった。 そんなことを考えながら、ジャックは封筒の口をあける。 後で読んでと言われたから、持って帰ってきて封を開けたのだが、やたらと綺麗な封筒だったから開けるのに妙な緊張をした。 ペーパーナイフなんて上等なものはなかったから、細いナイフでそっと切って・・・・なんとか開けた封筒から、ジャックは便箋を取り出す。 封筒とそろいの淡いピンク色の便箋を広げると、透かしのバラ模様のついた面に文字が並んでいた。 すごく達筆というわけではないが、小ぶりでかわいらしい文字はいかにも書いた人間を思い出させた。 『ジャック・ミラーズ様』 そう書かれた宛名から始まって、自己紹介が続く文面はすでに何度か目を通していた。 「好きなものは甘いもの、好きなことはおしゃべりや読書、か。」 彼女らしい、のびのびとした姿が目に浮かぶ。 (そういえばマープルに餌付けされてたっけ。) マイペース全開のマープルにも臆せず近づいて、手作りお菓子に相好を崩していたエミリーを思い出して、ジャックは苦笑した。 そんな風に文章を追って行って、最後の一文でジャックはぴたりと視線を止めた。 何せそこには、さっきからジャックを悩ませている一文があったから。 『お返事待ってます。』 「・・・・返事、な。」 そりゃまあ、そうなるだろう、とこの手紙を受け取った時から思ってはいた。 なにせエミリーは自分のことも知ってほしいが、ジャックのことを知りたいと言ったのだから。 しかし。 「〜〜〜、何を書けって言うんだ・・・・」 机に置かれた真っ白な便箋を前に、ジャックはとうとう頭を抱える。 正直、それが全然わからないのだ。 確かに文章を書くのは嫌いではない。 ノートをとるのは苦ではないし、字を書くのも結構好きだ。 しかし内容の決まっていることを書きうつすのと、手紙を書くのはこうも違うのだとジャックは今まさに思い知っていた。 (思ったまま書けばいいってあいつは言ってたけど。) それがまた難しい。 自分のことを多く語るわけにはいかないし、イーストエンドにエミリーに話せるようなかわいい話は転がっていない。 かといって、趣味や特技のような当たり障りのないような内容も思いつかない。 (それに・・・・なんとなくだけど、あいつに嘘はつきたくねえし。) 自分の手はとおに真っ赤に染まっているし、今さら嘘の一つや二つ大したことはないはずなのだが、なぜだかエミリーのことを思い出すと嘘を書こうとは思えなかった。 もしかしたら、自分もエミリーに自分のことを知ってほしいと思っているのだろうか。 そんな考えがちらりと脳裏をよぎって、ジャックは顔をしかめて首を振った。 「・・・・くだらねえ。」 あっちは名門の次期当主のお嬢様、こっちはイーストエンドの殺し屋なのだ。 全然違う方向へ行くはずの人生がほんの少しふれただけ。 ただそれだけだ。 ―― それだけ、だけれど。 「・・・・・」 ジャックは無言で手元の便せんと、机の上に広げたままの真っ白いそれに目を落とす。 誰かが自分に手紙をくれる・・・・興味を持って笑いかけてくれる。 そんな事は初めてだったから。 エミリーの手紙を持つにはこの手は汚れすぎているとわかっていても、何度も手紙を手に取ってしまう。 その度に、感じた事のない感情が胸の内に広がるのだ。 それは分厚い雲の向こうからほんの少し零れ落ちてきた日溜まりに出会ったような、温かくて心地良い何か。 だから、エミリーの関心を失わせるためにはこの手紙の返事など書かなければいいとわかっていても、気が付いたら学園の帰り雑貨屋に寄って便せんと封筒を買っていた。 ノート以外の物を初めて買ったから善し悪しもわからなくて、とにかく白ければ間違い無いだろうと選んだ便せんも封筒も真っ白だ。 常に薄汚れた物しか無くて、そんな物にばかり囲まれていたジャックの世界には不釣り合いなほど真っ白な便せんは、まるで何かの暗示のようにそこにあった。 「・・・・とにかく、書かねえと。」 このまま便せんと見つめ合っていようと、勝手に文字が浮き出てくるわけでもないと、ジャックは意を決してペンを取った。 数少ないジャックの私物である万年筆は使い込んでいるはずなのに、初めて握ったように緊張した。 それを一度便せんに下ろそうとして、もう一度上げてため息を一つ。 「だから・・・・とにかく宛名だろ。」 何を書いたらいいかはわからない。 でもとにかく始めなくては、と思う。 きっと、どんな内容でも返事を返せばエミリーは嬉しそうに笑ってくれるだろう。 無邪気に笑うエミリーの顔を想像して、ジャックの気持ちが少し緩んだ。 そして、一つ息を吸うとジャックは万年筆を便せんの上へ下ろした。 変わり者で物好きなお嬢様へ、イーストエンドの何も持たない少年から。 ―― 『エミリー・ホワイトリーへ』 ぎこちなく綴った宛名の先に、真っ白に広がる便せんに、何故かこれから今まで知らなかった何かが綴られていくような、そんな気がした。 〜 END 〜 |